コラム
2021.07.13
「ダイバーシティな古町」
新潟お笑い集団NAMARAの立ち上げ準備をしていた頃、月に10日は東京の前職レコードメーカーでバイトして何とか食いつないでいた。
新潟では月刊Komachiでお馴染みのニューズ・ラインでもちょっとしたバイトをしていました。
当時、「月刊CR」という「月刊くるまる」前身の雑誌に、古町のスナック特集がありまして、きれいな夜の女の子を路上で声を掛けて取材に行き、写真撮影もコムラも担当していました。
毎月4軒のスナックを取り上げ、4軒のうち2軒は、女の子のパンチラと谷間もセットにしました。取材のためにバイト代の10倍は古町にお金を落としていたので、古町ではそこそこ有名でした。その頃20代前半の女の子が、今ではママになって現在も古町で頑張っている人もいます。今から25年前の古町はまだまだ古町をしていました。ショーパブがあったし、ニューハーフのお店もホストクラブもありました。
ショーパブ「三軒茶屋」には芸人と何度か行ったこともあり、一度、NAMARA芸人の度胸試しで舞台に上がったこともあります。
ニューハーフのお店「マリアノブレ」では、NAMARAの登竜門として、「1日おかま体験」として、完璧に女装して働かせた事もあります。
30代前半の若造の僕にとって「鍋茶屋」なんて雲の上の存在でした。
経済人の大物や田中角栄のような大物政治家が古町芸妓の舞を見ながら密会しているイメージがありました。古町で深夜まで飲んで、酔っぱらってふらふらと歩いていたら「鍋茶屋」の前でした。この門をいつか自分の手で開けるんだと戸を開けるふりをしたら、なぜか本当に開いてしまったので、ふらふらと入って行ってしまったことがあります。
気が付くと田中角栄が豪遊したという大広間にいました。
これはひょっとして不法侵入?いやいや待てよ、一応、「すみませーん、誰かいませんかー」と声を掛けて入ったから、これは確認だ。確認だから、不法にはならないか・・・。
いや、ちょっと落ち着いて考えようと、その大広間に大の字になって、天井を見上げながらゆっくり考えることにした。
かなり、ゆっくりしたようで、辺りは明るくなっていて、ちゅんちゅんと雀の鳴き声もしていました。どうやら寝ちゃったようです。
その後、「お邪魔しましたー」と玄関先でひとこと言ってからそそくさと帰りました。
(この話は後日、ちゃんと女将には報告してあります) 「鍋茶屋」はまだ無理だとしても、どこか芸妓さんが立ち寄る場所はないかなあと、まだ明るい夕方の18時頃にふらふらしていたら、ホテルイタリア軒のはす向かいにある「久本」が目に入りました。
そのとき、所持金が5000円。のれんをくぐり、すみませんと声を掛けると女将がいた。
僕は破れたジーパンにТシャツ。手には握りしめた5000円札。
「正直、これしか持っていません。一杯だけでもいいですか?」
一玄さんはお断りよと言われるかと思ったら、「どうぞどうぞ。」と向かい入れてくれた。
カウンターで飲んでいると、隣の男性から「NAMARAくんかね」と声を掛けていただいた。新潟でお笑いをはじめて、爆笑問題をゲストに迎えてライブをしたことも、僕の存在も知ってもらっていることが嬉しくて、ついつい話し込んで、飲んでしまった。5000円しかないので不安な顔をしていると、その男性から御馳走してもらうことになった。
東京にいた20代から古町のような繁華街で酒を飲み、隣のおじさんと仲良くなってご馳走になった。終電がなくなり赤の他人の家に泊まらせてもらったこともしばしば。30代半ばまでは、本当におじさんキラーだった。
そして僕もおじさんになった。芸人と一緒に「鍋茶屋」で芸妓さんを呼んでお座敷遊びをするようになった。「久本」にも新人芸人全員連れて飲みに行ったことも。
僕が多くのおじさんから受けた恩を、おじさんになった僕が今度、古町や若者にしていく恩返しの番になったようだ。